(1)太極拳論(王宗岳)

  [太極拳]と言う名称は18世紀の山西省の文武に秀でた王宗岳(生死不明・乾隆年間{1735~95}に活躍)が、それまで「長拳」とか「十三勢」とか言 われていた武術について[易経]の思想に基づき「太極拳論」という約500字の文章を著してからこの名称が定まったとされています。
この「太極拳論」と付随するような王宗岳の「太極拳釈名」「十三勢歌」と武禹襄(1812―1880)という武式太極拳の開祖が著したこれらへの解説的な 「十三勢行功心解」というのがあります。これらが太極拳の経典として重要視されています。「虚領頂勁」「立身中正」「虚実分明」等々の常用句の多くがこれ らの経典の中から引用されています。原文は勿論漢文のような中国文です。本当は原文から紹介するほうが良いのでしょうが、省略して漢字かな混じりの(読み下し文)と、それの解説をこころみようと思います。原典の内容は非常に奥深く、又人によって理解のしかたは夫々多様でありますが、私なりに受け止めたもの を解説してみます。             解説 東京地区担当理事 加藤清八郎

(1)太極拳論(読み下し文)                    王宗岳
「太 極は無極にして生ず、陰陽の母、動静の機なり。動これ即ち分れ、静これ即ち合す。曲に随い伸に就き、過ぎたるも及ばざるもなし。人剛にして我柔なる之を走 と謂う。我順にして人背なる之を黏(ねん)と謂う。動き急なれば即ち急に応じ、動き緩なれば即ち緩に随う。変化万端と雖も理は一貫をなす。着が熟するに 由って漸く懂勁(とうけい)を悟り、懂勁に由りて階は神明に及ぶ。然れども功を用いることの久しきに非ざれば、豁然として貫通すること能ず。
虚領頂勁、気沈丹田。不偏不倚、忽ち隠れ忽ち現る。左重ければ即左虚とし、右重ければ即右を杳とする。仰げば即ち弥(いよいよ)高く、俯せば即ちいよいよ 深し;進めば即ち愈(いよいよ)長く退けば即ちいよいよ促す。一羽も加える能わず、蝿虫も落ちる能わず。人我を知らず、我ひとり人を知る。英雄の向かう所 敵無きは、蓋し皆此に由りて及ぶ也。
この技、旁門甚だ多し、勢の区別有りと雖も、概ね壮は弱きを欺き、慢は快に譲るに外ならざるのみ。力有るは無力を打ち、手快きは手おそきに勝つ、是皆先天自然の能にして、学び力(つとめ)て為す所有るに関するに非ざる也。
察せよ、四両も千金を撥(はじ)くの句を、顕にせよ、力に非ざるが勝つを。耄耋(もうてつ・としより)が能く衆を御するの形を観よ、快何ぞ能くせんや焉。
立てば平準の如く、活すれば車輪に似たり。沈に偏れば即ち随い、双重なれば即ち滞る。数年よく努力しても運化能ざる者は率(おおむね)皆人に制せられるの を毎度見る、双重の病いまだ悟らざるのみ。この病を避けんと欲すれば須らく陰陽を知るべし。黏なれば即ち是れ走、走なれば即ち是れ黏。陽は陰を離れず、陰 は陽を離れず、陰陽相済し、方(まさに)懂勁と為す。懂勁の后、愈練し愈精せよ、黙して識り揣摩(おしはかる)して漸く心が欲する所に従うに至る。本は是 己を舎(すて)て人に従うべきを、多くは誤て近くを舎て遠きを求む。所謂毫厘の差、以って千里を謬る。学ぶ者は詳らかに辨えざるべからず。」

☆ 原文を数句ずつに分けて検討し解説を試みようと思います。特に始めの所は中国の昔からの天地創造の伝統思想にかかわることで、中国武術の中での太極拳の特徴を理解するのに必要と思われるので少々くどくなりますが我慢してください。

 「太極者無極而生、陰陽之母、動静之機也。動之即分、静之即合

太 極拳の太極とは何かを先ず冒頭に説いています。太極と言う言葉は、古くは易経の中の孔子による解説とされている繋辞上伝に「易に太極あり、是れ両儀を生 ず。両義は四象を生じ、四象は八卦を生ず。」とあります。両儀とは陰と陽であり、四象は老陽・少陰・少陽・老陰であり、八卦とは乾兌離震巽坎艮坤で人の文 化・社会も含む天地の森羅万象をあらわすとされています。宇宙の万象は陰陽の組合せと変化によるものとしています。即ち太極とは陰陽の元であり、あらゆる ものの根源であります。
老子の第四〇章に「天下万物生於有、有生於無」(天下の万物は有より生じ、有は無より生ず)とあります。 更に宋の時代の周濂渓(敦頤)の太極図説には 「無極にして太極。太極動いて陽を生ず。動極まって静、静にして陰を生ず。静極まって復た動、一動一静、互いにその根となり、陰に分れ陽に分かれて両儀立 つ。陽変じ陰合して水火木金土を生ず。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極はもと無極也」とあります。 要するに太極とは無極から生じたものとして います。
現代科学の最先端でも百三十七億年前にビックバンで宇宙が開闢し、1秒の百億分の1の又百億分の1の更に百億分の1の時点では重力も光も原子核のかけらも電気の+-も未だ生じていなかった混沌の状態があった、としているのと同じことだと思います。

「無極から太極」の状態は無から陰陽・動静が将に分れ現れようとしている機をはらんでいる状態であります。準備の姿勢を無極勢(無極式)、開歩で足を肩幅 に開いた開立歩の姿勢を太極勢(太極式)と言うことがあるのは、これから起勢を経て動作を開始しようとする状態を無極・太極になぞらえたと思います。 東 京協会の太極剣のビデオの始めにも「太極拳は、静極めて動となり、動即ち分かれて動作になる。動極めて静に戻り、静即ち合さり太極に戻る。」とあります。
陰陽と虚実・動静と開合は夫々対立し反対の状態のようですが、虚に支えられて実があるのであり、陰と陽がはっきり対立している場合もあるが、陰の中に陽があり又その中に陰があったりする含みがあることも多い。
「虚実分明」と言ったり、「虚中実あり、実中虚あり」と言ったりする。
太極マークの黒いまがたまの中心に白い小さな丸があり、白いまがたまの中心に黒い小さな丸があるのがそれを表したものである。陰と陽は表裏でありまた一体 でもあり、互いにあいまって助け合うものである。従って虚実・動静・開合は同時性も含めその転換は軽妙に且スムースにやらねばならない。

随曲就伸

「随」とは随意に順応出来ると言う意味もある。「就」とは出来るとか‘すぐさま’とかの意味もあるので‘どのような曲がりにも順応出来るし、すぐさま伸びることも出来る’の意味である。屈伸自在である。

無過不及

多すぎる(やりすぎる)こともなく、足りない(やり足りない)こともあってはならない。

人剛我柔謂之走、我順人背謂之黏

「走」 とは普通歩くとか、行くとかの意味であるが、逃げるとか世を渡るとかの意味もあり、ここでは‘かわす’と翻訳すべきで、‘相手が強い力できた時自分は柔ら かく応じるのをかわすと言う’「順」はよどみなく素直にしたがうとか順当であるとかの意味であり、「背」はそむくとか不順当とかの意味もある。従って‘相 手が不順当なそむくような動きをしても自分は順当によどみなくしたがっていくのを黏という’ 「黏」は粘りっこいことである。

動急即急応、動緩即緩随

‘相手の動きが速ければ自分も速(すみ)やかに対応し、相手の動作が緩やかであれば緩やかに対応する’「随曲就伸から動緩即緩随」までは、推手の時に放松しながら相手の動きに柔らかく対応する心得とも合致している。

雖変化万端、而理為一貫

‘動作はどんなに多くの変化があるにしても、その本となっている道理や原理は一貫している‘

由着熟而漸悟勁、由勁而階及神明

「着」はここでは手段とか方法で‘武術の技能に熟練する’と訳したい。「懂」(とう)はわかる、理解すると言うことで「懂勁」は太極拳で言う真の勁力がわ かり理解することである。 「階」とは段階であり技能のレベルである。 「神明」は神様のレベル・神わざのレベルである。従ってこの2句は‘太極拳の技能 に熟達する事により漸く真の勁力を理解する事を悟るようになる、真の勁力がわかる事によって神業神妙のレベルに至るる事が出来るようになる。’

然非用功之久、不能豁然貫通焉

「功」は努力して修行し訓練する事である。「豁然」は迷っていた心がからりと開けるさまである。「焉」は強調の意味である。 従ってこの2句は‘しかし長期間にわたって努力修練をしなければ、豁然と到達することは出来ない!’である。

「虚領頂勁、気沈丹田」

「虚領頂勁」には2説あります。「虚」は虚実の虚で異論は無いのですが、「領」には‘うなじ、えり’の意味と‘案内する、引率する’の意味もあります。 「頂」は頭頂で「頂勁」は頭突きの力ではなく‘頭をまっすぐに支える勁’です。そこで「虚領頂勁」には‘うなじを虚にし(放鬆させ)て頭をまっすぐに支え る’とする訳と‘頭を支える力を虚的に(放鬆して)導く’とする訳とがあります。十三勢歌その他には「頂頭懸」‘頭の頂きが上から吊り下げられている状 態’という表現が多く使われています。何れにしろ要するに“頭をまっすぐに、無駄な力を入れないで支える”ことであります。
この為には腰、肩の力を抜き、立身中正、含胸抜背にして頭の頂きを天に向けて上げ、気は下に沈めるような意識をしたらよいと思います。
「気沈丹田」は読んで字の如く “気は(を)丹田に沈める”でよいと思います。「気」についてはそれだけでゆうに1冊の本になるほどで、かなり多くの本が 出ていますが、ここでは‘精神を安定させ重心が浮き上がらぬように安定させること’と理解する程度にして、「気」についてはそのうちに又ふれる事があるか もしれません。

「不偏不倚、忽隠忽現」

「不偏不倚」は何時でも重心を両足の真中にせよという意味ではありません。正しい弓歩も正しい虚歩も不偏不倚です。「偏」も「倚」も‘かたよる’であるが 「倚」には‘よりかかる、もたれる’の意味合いがある。重心の移動における「虚実分明」の「虚実」と「偏」「倚」との違いは、実の方向へ勁力が働いている か否か、状況の変化に対する動作の変転が軽敏に行なわれるか、否かである。
「隠」「現」は‘姿’がかくれて見えなくなったり出てきたりするだけでなく‘勁’が隠れたり強く発揮されたりすることでもある。 「忽」も‘即座に’の意味と‘何時の間にか’の意味合いもある。したがってこの対句は

“動作が偏ったり寄りかかったような状態にならず、何時でも軽敏に動作の変転が出来るようにし、体勢も勁も即座に或いは何時の間にか、軽妙に変幻自在に転換する”である。

「左重即左虚、右重即右杳」

「杳」は‘くらい、とおい’の意味で杳(よう)として行方知れず、などと使われていますが、ここでは虚と同じと考えられます。この句は前句との関連で「不偏不倚」の対策の手段を記したものでしょう。
“左が重いと感じたら、即座に軽敏に重心を転換し、右が重いと感じたら即座に転換して右の重さを軽減する。”

「仰之即彌高、俯之即彌深;進之即愈長、退之即愈促」 

第1句の直訳は‘仰げばこれ即ちいよいよ高く’である。仰ぐのは自分ではなく相手の動作であり、「之即」は‘その時は即座に’である。即ち“相手の注目点 が高いところにあり上向きに見ているならば、即座に更にいっそう高いところに注目点を上げる、”という意味である。以下の3句を続けて訳すと
“相手が低いところに注目すれば直ちに更に一層深い所に注意を向けさせる;相手が進んでくれば即座に更に遠くに離れ、退けば直ちに更に迫っていく。”

「一羽不能加、蝿蟲不能落」

“小さな羽毛のような軽い力でも加われば即反応し、蝿や小さな虫も降りてきて止まることも出来ないようにする。”心身ともに放鬆し精神が充実した状態で、全身の感覚も研ぎ澄まされた時には、わずかな状況の変化も敏感に感じとり反応できるようになる。

「人不知我、我獨知人」

“相手には我が方の動向や意図を分からせないようにし、自分だけが相手の動向や意図がよく分かるようにする。”
相手の動向や意図を知るためには目と心眼による観察と、体が接触していればその接触の皮膚感覚、空気の動き、呼吸、目の動き、心の動きを敏感に感じ取る必 要がある。この為には心身ともに放鬆が必要であり、またこの放鬆が自分を人に分らせないことにもなる。柳生流の兵法家伝書の中に‘一刀とは刀にあらず、敵 の機を見るを一刀と秘する也。大事の一刀とは、敵のはたらきを見る(の)が、無上極意の一刀なり。’とあります。

「英雄所向無敵、蓋皆由此而及也」

“英雄が攻めていくと、何時も敵を打ち破り、対抗する敵がいないようなのは、けだし(思うに)いつも英雄が相手の動向や意図を把握し、自軍の行動を敵に知られないようにしているからである。”

『孫氏』の兵法の書に有名な「彼を知りて己を知る者は百戦して殆(あや)うからず」というのがあります。己を知ることは同時に己を敵にさとらせないことにつながります。

「斯技旁門甚多、雖勢有区別、概不外壮欺弱、慢譲快耳!」

「この技」とはこの時代の各種の伝統拳法のことで、「旁門」とはこの場合各種の流派のことである。「勢」は夫々の武術流派の姿勢・方法である。即ち

“この伝統拳法には非常に多くの流派があり、夫々の流派の技法は夫々違いがあるが、大抵は腕力の強いものが力の弱いものに勝ち、動作の遅い者がすばやい者に負けるというだけの事である!”

「有力打無力、手慢譲手快、是皆先天自然之能、非関学力而有為也。」

“腕力のある者が腕力の無いものに勝ち、手の遅い者が手の早いものに負けるのは、当たり前のことで、武術の修錬の成果とは関係の無い事である。

「察四両撥千斤之句、顕非力勝;観耄耋能禦衆之形、快何能為。」

中国では1斤は500gで10両が1斤ですが、昔の1斤は16両でした。従って4両は4分の1斤で、“「(100g程度の)僅かな力で千斤(500㎏)も の重いものをはじく事が出来る」ということわざは、技能があれば腕力が無くても力持ちに勝てるという事を明らかにしているのである;” 「耄」は 80~90歳の老人、「耋」は70~80歳の老人のことで「耄耋(もうてつ」」とは高齢の老人のことである。「禦する」とは思うがままにあやつることで 「禦衆」は何人もの相手をやっつけることである。
“高齢の老人が何人もの相手をやっつけているのを見ると、動作が速いというだけでは駄目だということがわかる。”

「立如平準、活似車輪。」

「平準」とは分銅で目方を量る‘天秤バカリ’の事で、左右の重みに敏感に反応し、不偏不倚、立身中正を保つ。「立つ」は定勢を含めた動作中の姿勢です。「活すれば」は‘活動すれば’で即ち‘動いている様子は’である。即ち
“動作の姿勢は秤のように立身中正を保ち、動作は車輪のように円滑に前後左右に自由に動く。”

「偏沈即随、双重即滞。」

「偏沈」は重心が一方に偏ることで、「双重」とは両足がべたっとした感じで両足とも重くなり、軽やかに動作できない状態を言っている。起勢の動作で重心が 中心にある時、全身が放鬆し両足全体で適切に踏みしめられている状態では、次の動作に軽く自由に転換できるので、双重とは言わない。太極拳では「沈」は安 定につながり正しいが、「重」は鈍重にになり不可としている。
“重心が一方に偏れば直ちに反応し、両足がベタッと重くなれば動作はたちまち滞ってしまう。”

「毎見数年純功、不能運化者、率皆自為人制、双重之病未悟耳。」

「純功」は‘一生懸命練習する’で、「運化」は‘太極拳の高いレベルの技能を自分のものにする’ことである。
“何年も一生懸命練習しても、太極拳のレベルがなかなか向上しない人がよくいるが、この様な人はたいてい相手にやられてしまう。これは前述の‘双重’という悪い癖(病)に気が付いていないからである!”

「欲避此病、須知陰陽。」

“この双重の病を直したければ、陰陽のことをよく理解しなければならない。”

「粘即是走、走即是粘。」

“粘るようにして相手と軽い接触状態を持続するのが走(かわすこと)であり、かわすことは同時に粘である。”

「陰不離陽、陽不離陰、陰陽相済、方為勁。」

“陰は陽を離れず、陽も陰から離れる事は無い。陰と陽が夫々の役目を助け合いながら果たすようにすることが出来るようになれば、懂勁(勁をさとる)の状態になったのである。”

勁后、愈練愈精、黙識揣摩、漸至従心所欲。」

「黙識」は黙して勉強し知識を深めるで、「揣摩」は推しはかる事である。
“懂勁した後に、ますます精進し更にいっそうの訓練を重ね、又精神面でも更に勉強し、深く推察も行うことにより、次第に自分の心がしたいと思う事が自由自在に出来るようになるのである。”

「本是捨己従人、多誤捨近求遠。」

“本来‘己を捨てて人に従う’であるべき筈なのに、多くの人は‘近くを捨てて遠くを求める’という過ちを犯している。” 基本を大事にせずに上達だけを望んでしまう者が多い。

「所謂差之毫厘、謬之千里、学者不可不詳辨焉。」

厘は1寸(約3㎝)の100分の1であり、毫は更にその10分の1で「毫厘」は‘ごく僅か’の事である。

“始めはごく僅かの間違いでも終わりには大きな間違いとなるという格言がある、太極拳を学ぶ者はこの事をよくよくわきまえなくてはならない”
‘己を捨てて人に従う’という事が太極拳を学ぶ上で、極めて大事な基本である事を最後のまとめてとしています。