(4) 十三勢行功心解(武禹襄)

(4) 十三勢行功心解                 武禹襄 

武禹襄(1812-1880) は武式太極拳の開祖であり、また孫式太極拳の孫禄堂の3代前の師でもあります。
武禹襄が太極拳を実践している中で、王宋学の「太極拳論」「十三勢歌」等を、自分なりに理解した内容を、自分の為または弟子の為に書いたものを、まとめたものが4つの文章となっています。
「十三勢行功要解」「太極拳解」「太極拳論要解」「十三勢説略」の4つです。これらの間には重複していたり、同じ事が別の表現になってたりするので、この4つをまとめて「十三勢行功心解」として説かれている本もあります。ここでは
李秉慈老師の「呉式太極拳拳械述真」という本の中に記載されている、「十三勢行功心解」にそって、紹介します。
全文は4つの段に分かれています。
段毎の読み下し文に、行番号を振り行毎に解説を加えます。

第一段 読み下し文

⑴ 解いて曰く、心を以って気を(運)行し、務めて沈着ならしめよ、即ち能く収斂して入骨す。
⑵ 気を以って身体の動きを運び、務めて順随ならしめよ、即ち能く心に従うに便利なり。
⑶ 精神能く提起し得れば、即ち遅重の虞なし、所謂‘頂頭懸’也。
⑷ 意と気は須く霊を得て換えよ、即ち円活の趣きあり、所謂‘変転虚実’也。
⑸ 発勁は須く沈着鬆浄にし、専ら一方を主とせよ。
⑹ 立身は須く中正安舒にして、八面を支撑すべし。
⑺ 行気は九曲珠の如くすれば、往きて不利になる事はない(原注;‘気は全身に遍くめぐらす’の事である)。
⑻ 運勁は百錬の鋼の如く、何ぞ堅を砕かざるか。
⑼ 形は兎を打つ鷹の如く、(精)神は猫が鼠を捕えるが如し。
⑽ 静なる事山岳の如く、動ずれば江河の如し。
⑾ 蓄勁は弓を開くが如く、発勁は箭を放つに似たり。

曲中に直を求め、蓄えてのち発する。
⑿ 力は脊より発し、歩は身に随いて換えよ。(力由脊発、歩随身換)
⒀ 収は即ち放であり、断ちては復た連なる。
⒁ 往復は須く折畳あるべし。進退須く転換あるべし。
⒂ 柔軟を極めて、然る后堅剛が極まる。
⒃ 呼吸を能くし、然る后よく霊活にせよ。
⒄ 気は以って直養すれば無害であり、勁は以って曲蓄すれば余りあり。
⒅ 心を(司)令となし、気を旗となし、腰を枢(かなめ)となし、先に展開を求め、のちに緊湊を求めよ。即ち縝密に臻(いたる)べきである。

第一段の解説

⑴ 心の言う通りに気をコントロール(制御)して、気がうわついた状態でなく、下に落着いた状態にさせなさい。そうすれば気は集中して収まり、丹田から更に腰椎骨の中にまで入って収まってくる。(気沈丹田)
⑵ この心の言う通りになった気で動作を導き、自然に素直に、この導くままに従って体を動かせ。そうすればぐあいよく心に従った動きになる。
⑶ 精神をよく充満させ高揚させれば鈍重になるような心配はない。所謂‘頂頭懸’(虚領頂勁)にすれば精神も充実してくる。
⑷ 「霊を得て」とは‘敏捷に’とか‘機敏に’とかの意味である。
意念、意識、意思とか気とかはどこかに止まっている事なく、機に応じて機敏に転換せよ。そうすれば円滑に且つ活発な動作ができる。これが所謂‘変転虚実’のことである。
⑸ 発勁をするときは必ず沈着に、落着いて、放鬆し力を抜いて、1点に精神を集中させなさい。
⑹ 立身とは姿勢のことで、中正とは倒れかかるような偏りがなく、身体の軸が中立で正しい姿勢である。安舒とは安らかで、緊張がなく伸びやかな状態である。四方八方に気を配り、対応できるようにせよ。
⑺ 九曲珠は完全な球で何処にでも転り込んで行く球である。従って、気を九曲珠のように全身に遍く回していけば、どのような場合でも不利になる事はない。
⑻ 力を抜いた状態での勁の働きは、百錬の鋼のようで、どんなに堅いものでも砕いてしまう。
⑼ 形は鷹が上空から兎を狙って飛び下りてくる姿の如く、心は猫が鼠を捕まえる時のように、静かにしかも充満した状態にせよ。
⑽ 静かなること山の如く、動けば江河の如く滔々として絶える事がない。
⑾ 弓を引き絞るように勁を蓄え(勁をためる)、発勁は矢を放つようにせよ。
太極拳の動きは常に円弧を描いているが、何時でも直線的な鋭い動きが出来るようにし、力を蓄えて一気に発勁する。
⑿ 力は含胸抜背した脊(背中)を通して発揮され、足は身体(腰)の動きに従って運ぶ。
⒀ 収めるという事は必ず放すという事であり、一つの動作が終わったら直ちに切れることなくつなげていく。
⒁ 往復とは動作の事で、折畳みとは屈曲した変化である。即ち往復の動作は屈曲した変化をつけ、進退も変化のあるようにせよ。
⒂ 柔らかな動作の仕方の最高を修得する事により、はじめて堅剛な勁を使う事を極める事が出来るようになる。
⒃ 動作の習熟につれて呼吸法にも習熟し、それに依り更に動作も軽敏活発に出来るようにせよ。
⒄ 気は素直に養えば無害であり、勁は曲線的な動きの中で蓄勁すれば余裕のある力が出せる。
⒅ 心が動作の命令をし、気は軍旗のように動きの方向を示し、腰を動作のかなめとするようにして、先ず伸びやかで大きな動作を修得してから、次に各部分の細かい点に注意を払い、更には綿密に動作が完成出来るようにせよ。

第二段 読み下し文

⑴ 又曰く、先に心が在り、后に身在りである。腹は鬆にし、気は斂(おさ)めて骨に入れ、神は舒に体は静に、刻々心在り。(先在心、后在身)
⑵ 切記せよ、一動すれば動かざる有ることなく、一静すれば静ならざる有ることなし。(一動無有不動、一静無有不静)
⑶ 牽動は往来し、気は背に貼り脊骨に斂入すべし。
⑷ 内は精神を固め、外は安逸を示せ。邁歩は猫行の如く、運勁は糸を抽くが如くせよ。
⑸ 全身の意は精に神に(蓄して)あるべし、
気は在らざるべし、気在れば即ち滞る。
⑹ 気有る者は力無し。気を養う者は純剛なり。
⑺ 気は車輪の如く、腰は車軸の如し。
…………………………
各行の解説の前にこの段では心、気、意、神又は精神とかいう、精神活動についての表現が多く出ていますので、此れらについて、少し考えてみたいと思いま す。同じ様な精神活動ですが、使い分けている以上、難問ですがその差を理解してみたいと思います。心理学等の学問的な検討とか、辞書などの広範な解釈でな く、武禹襄や王宗岳の太極拳論の中での意味を考えて見ます。
「心」とは精神活動のもととなるようなものですから、意識とか、意思とか、気とか言うものより、もっと内的な、基本的な‘こころ’の事ではないでしょう か。無意識のうちに考えの方向を導いたり、善悪、好き嫌い等の直感的判断も理屈ではなく、内面的な心の作用であって、その結果として次のステップで、思考 とか状況や意志などの認識・意識をするようになる。
「気」は非常に多くの意味があります。天気、空気、気持、元気、病気、雰囲気、等等。
心の動き・状態・働きなどを表現する言葉でもある。何かをしようとする心の動きとか、ある事をしようとしてそれに引かれる心とかで、‘やる気’などが代表的ではないでしょうか。(心の手先のように振るまうこともある)
「意」も心の働きの一つですが、意識、意念、意欲、意志、などの言葉があるように、ある程度の自覚意識がありながら、何かをしようという意向を持った、心の状態ではないかと思います。
「神」とは「精神」とほぼ同じと受け止めています。精神とは心を含めた全脳の活動でしょう。 変な例えですが、例えば敵が何処かからか、‘ぱっ’と斬りか かってきた時に、全身の感覚神経の反応と,瞬時の反射的動作命令をするのも、精神神経活動で、此処で言う意とか気や心よりも根底的な精神活動でしょう。

第二段の解説

⑴  又曰く、動作と言うのは、何かをしようという心(気ではない、又意識以前かもしれない)が先ずさきにあって、それに従って身体が動くのであって、先走っ た気によって手先から動いてはならぬ。腹は鬆にとは含胸抜背にする。気(やる気)は引き締めて骨髄(丹田)に収め入れる。精神は舒(ゆるやか)に体は静に とは「心静体鬆」と同じでしょう。刻々心在りとは一瞬も油断したり心が緩んだりしてはならないである。
⑵ 必ず銘記せよ、身体の一部がわずかでも動き出したら、全身が総てそれに呼応して動き、固まって動かない身体の部分が一ヶ所でもあってはならない。
身体のある部分を静にするならば、身体全身が静となり、身体の一部でも、もそもそ動くところがあってはならない。(一動全動、一静全静)
⑶ 「牽動」とは(一端がうごくと)それにつれて、ほかが逐次動くことである。
牽動往来とは前記の一動全動の一端が動き出した時に全身がそれにつれて動き、その動きが途絶えずに、さらに次の動きに繋がっていくようにすることである。 その時に、気が先走ってしまはないようにし、むしろ背中に貼り付け、脊骨に収めいれなさい。推や按の時、手だけで押そうとせず、背中も意識する。そうすれ ば力が背中から発せられるようになる。(力由脊発)
⑷ 内面の精神を充実させ、精神の緩みが無いようにせよ。外面である顔の表情や、身体の構えは安逸のように見せなさい。「邁歩」は歩の進め方で、足の運び 方は猫が歩く様に静かに行え。「運勁」とは力を伝える為の動作の事で、この動作は絲を紡ぐ時に繭から絲を抽き出す様に断絶することなく柔らかに行え。

⑸ 全身の隅々まで行きわたらせる意識意念は、きちんと心のもとである精神に繋げて、気だけがある様になってはならない。気が先行してはかえって滞ってしまう。
⑹ 気が強くある(先走ったり、浮ついたりする)者は、ほんとうの力を出すことは出来ない。力を使わない気を養う者は本当の剛い力を発揮する事が出来る。
第1段の⒄)行にも気は「直養すれば無害である」とありました。養うとは心の言う事を良くきくように育てることでしょう。逆に言うと気が心の言う事をきか ないと、害があると言っている。第1段の⑺)行の「行気は九曲珠の如く」での‘行気’は心がコントロールして九曲珠の様に全身に行きわたらせるのである。
⑺ 車は車輪によって動くが、車輪がちゃんと動くのは、車軸を中心として車輪がそのまわりを回っているからである。腰隙にある命意の源頭に随って気が車輪の如く動くのである。実際の動作でも、腰の動きに従って、全身の動作が自在に動くのである。

第三段 読み下し文

⑴ 又曰く、彼動かざれば、己動かず、彼微動すれば、己先に動く。
⑵ 鬆に似て鬆にあらず、将に展(ひろが)らんとして、未だ展らず、勁は断ちても意は断たず。(勁断意不断)

第三段の解説

⑴  太極拳はもともと防禦の武術、即ち護身術を主とするもので、こちらから先に相手に攻撃をかけるものではありません。従って相手が攻めて動いて来なけれ ば、自分からは攻めていかない。しかし、相手がこちらに攻めかかる目的で、僅かにでも気配を見せて微動を始めれば、自分の方が先に動いて敵の動きをかわし て反撃する。
⑵ 「鬆」とは放鬆(ふぁんそん)の‘そん’で‘ゆるやか’とか‘ゆるめる’とかの意味で、略字で「松」の字が使われる事も多い。
全身が放松してゆるやかな状態であるが、たるんでしまって反応出来ない状態ではない。何時でも動いて伸びひろがる事が出来る状態であるが、未だ伸びひろがっていない状態である。
勁を伝える動作が蹬脚や発勁などで、一時止まる事はあっても、対戦中或いは試合又は競技中に、意識や意念などの意が切れてはならない。

第四段 読み下し文

⑴ 又曰く、一挙動、周身ともに軽霊を要す。とくに須く貫き通すべし。
⑵ 気は宜しく鼓蕩(ことう)すべし;神は宜く内に斂(おさ)め、欠陥の所有らしむなかれ、凹凸の所有らしむなかれ、断続の所有らしむなかれ。
⑶ 其の根は脚に在り、腿に発し、腰が主宰し、手指に形する。
⑷ 脚より腿に腰に、総て須く一気に完整すべし、前進後退は乃ち能く機と勢を得てせよ。
⑸ 機と勢を得ざる所あれば、身は散乱せしめられる、其の病の元は腰と腿に求められる、上下、前後、左右皆然り。
⑹ 凡そ此れらは皆是意にして、外面にあらず。
⑺ 上有れば即下あり、前有れば即后有り、左有れば即右有り。
⑻ 意が上を向くを要するならば、即下への意識を寓せよ。
⑼ 物を将に持ち上げようとする時、下を挫くような力を加えてから持ち上げるが如し。斯くすれば其の根自ずから断ち、壊れる事の速き事は疑いなし。
⑽ 虚実は宜しく明らかに分けよ、一所には一所の虚実あり、何処にも総てみな虚実あり、全身節々に貫き通され、絲毫(しごう)も間断することなかれ。

第四段の解説

⑴ 一たび動き始めたら、全身どこでも軽敏でなければならない。特に動作は一気に貫き通して完成させなければならない。(一動全動、連貫円活)
⑵ 気はよく励まし奮い立たせて、伸び伸びと全身にめぐらせて働かせなさい。精神は内面に収めて、動作や姿勢には欠点がないようにし、滑らかな円弧を描き、凸凹や角ばった所がないようにし、断勁や意識が途切れる事があってはならない。
⑶ (脚は足首から先で、腿は太ももから足首までである) 動作の根源は足首から先の脚であり、ここから腿に更に腰に伝わり、腰が主宰して全身の動きが調整され、その結果としての形が手や指に表れる。
⑷ 脚より腿に腰に更に全身に至る動作は総て一気に同時に完成させなくてはならない。このためには前進後退はチャンス・タイミングと動きの流れ(機と勢)をつかんでやらねばならぬ。
⑸ この機と勢をつかまないで動作をすると、身体全体がばらばらに乱れてしまう。その間違いの元は腰と足に原因がある。上下の動きも、前後、左右の動きでも皆同じである。
⑹ これらの事は皆内面の意が大事であって、外面の形の問題ではない。意(意識・意念・意思)が機と勢を得て、動作を導くのである。
⑺ 上あれば下あり、前あれば后あり、左有れば右あり、というのは当り前であるが、ここでは陰陽、虚実との関連もあり、意識と動作の面で、上なら上、前なら前、右なら右と一方に気とか意がとらわれず、両面に意を配らねばならぬ事を言っている。
⑻ 上に向かう動作を必要としたなら、まず下に向かっての意識を配らねばならぬ。
⑼ 重いものを持ち上げようとする時には、腰を下に沈め、その物を一度下に押さえつけるようにする事により、足が踏みしめられ、腰も更に締まってうまく持 ち上げられるのと同じである。このようにすれば、相手の根拠は自然に壊(こわ)れ、相手の体勢をすばやく崩す事が出来る。
⑽ 虚実は明らかに分けなさい。(原文では「虚実宜分清楚」であるが一般には「虚実分明」と書かれ同じ意味である)動作をしている夫々の瞬間に、虚実があ り、動作にも、身体にも総て虚実がある。例えば摟膝拗歩で定勢では推している手が実で、下按の手は虚であるが、下に払っているときの手は実で、推す過程の 手は虚である。又定勢での推している手の掌の側が実で、手の甲の側は虚であり、更に掌の側が実で背中側は虚であるとも言えるが、背中側も充実していなけれ ばならない。意識はその実の所にありそこに勁を送るのである。従って身体の部分部分でも虚実があり、動作の時間的経過によっても虚実の変換がある。全身の 節々まで虚実の関連を貫き通して、いささかも間断があってはならない。
☆    武禹襄の原文には陰陽の文字はありませんが、虚実・意・気・心・神などの言葉の裏には王宗岳及び中国古来の陰陽の思想が当然の前提としてあるように思えます。
あとがき
東京太極拳協会の会報に2002年二月号から8回にわたり王宋岳と武禹襄の経典について、浅学非才をかえりみず投稿して参りました。この間判りにくいとい うお叱りを、再々度頂きながら非才の故に駄文のままに終回に至りました。原文は重要な内容が立派な表現で集約されていますので、なんとかその感じを伝えた いと思いましたが、頭と肩に力が入ってしまいました。
それから9年が経ち見直しをしながら、多少の訂正を加え、全体の書式もまとめる様にしました。
太極拳は武術ですから、頭でわかっても頭でっかちになるだけですが、真髄を理解する事も大事には違いありません。
これらの教えを私自身の体にしみ込ませ、自然な動作として体現出来るよう心掛けていきたいと思っています
原文に対する、わたしの理解が至らぬ事や、あるいは間違いも多々あると思いますので、
皆さんからのご指摘を頂ければ、大変有難い事なので、宜しくお願いします。
加藤清八郎
2011年1月

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